2012年08月21日
第3回 「イベントと出会い」
皆さんこんにちは。Bonjour!(ボンジュール!)
今日はもうひとつ簡単なフランス語。「元気?」というのはフランス語で「ça va?」といいます。「サヴァ?」という発音。
知り合いに会うと必ず、「Bonjour ,ça va?」と尋ねます。元気なら「Oui,ça va!」(ウィ、サヴァ)と返しましょう。相手にも「あなたも元気?」と聞くことをお忘れなく。フランス人には会話のキャッチボールを楽しむ文化があるのです。
あいさつの話題ついでに、、、
皆さん、フランスに旅行に行かれたことはありますか?
フランスでは、お店に入ったら「Bonjour」とお店の人に挨拶します。何も言わずに入ってくる日本人は少し気味が悪いみたい。おシャレなお洋服屋さんだけでなく、たとえタバコ屋や郵便局、スーパーでも同じです。列に並んで自分の番が来たら、まず「Bonjour」と言いましょう。そして用が済んだら、「Merci!」(メルシー:ありがとう)「Au revoir!」 (オヴァー:さようなら)を忘れなく。日本ではスーパーのレジなどでは何も挨拶をしないのが普通でしょうね。私はこのフランスの挨拶の文化が大好きです。すごく人間らしいと思いませんか?(フランスのレジのおばさんはたいてい愛想がなくちょっとムっとしますけど…)
さて、前回は私のフランス留学について書かせていただきました。
私が静岡で『エクラタン』を創刊した話もさせていただきました。
今回は、エクラタン創刊号発行以降のお話です。
創刊して、読者さんから結構なリアクションがありました。
そんな中、実際に皆さんにお会いしたいなとも思うようになりました。
そこで、イベントを開催。『ムニュの会』と題し、フランスの珍しい、本場の食材を皆で食べようという企画をしました。フランス好きのお友達に手伝ってもらって。「ムニュ」とはフランス語でコースメニューのこと。簡単なコースでは、前菜、メイン、チーズ、デザートという順ですね。
第一回ムニュの会は、「前菜」の回。浜松と静岡で開催しました。季節が春だったので、フランスの春の様子を紹介しながら、ホワイトアスパラを食べました。今となっては国産でもホワイトアスパラが出回っていますが、当時(10年前)はまだ、ホワイトアスパラといえば缶詰の細くてやわらかいもの、という認識しかなかった気がします。
会の実施方法としては、私の前職(第一回コラム参照)の輸入会社から、フランス直輸入(しかも高級料理店用ですからハイクオリティ)のホワイトアスパラを仕入れ、静岡のレストランにみんなで集まり、シェフに調理してもらう、という流れです。今考えると、レストランにはすごく強引でとんでもないことをしました!
とても太くて立派なホワイトアスパラ、歯ごたえがよく甘みがあって、1本で十分オードブルになる存在感のあるもの、召し上がった皆さんが「こんなアスパラは初めて」と味わってくださいました。

なんて立派なホワイトアスパラ!
資料を作ったりメニュー表を作るのは私。やはりおいしいものを食べることで、印象に残り、楽しさもあり、フランスの文化を知ってもらえるのだと感じました。会は好評、最初は苦労して人集めをしていましたが、つづいての「メインの会」からは大盛況でたくさんの方が来てくれました。メインの会のテーマは「ブレスの鶏(世界最高級と言われるフランスの鶏)」、別会場では「ラパン(うさぎ)の会」。うさぎ肉は怖いもの見たさで参加する方が多かったのですが、フランスではよく食べられる食材です。鶏肉に似た味わいなので、実際に食べてみると抵抗なく美味しくいただけたようでした。

うさぎ肉の料理。あっさりとした味ながら、しっとりとした食感
「チーズの会」では、たくさんのチーズをテーブルいっぱいにならべ、説明をしながら食べていただきました。お店の好意で、チーズを使ったお料理もいただけたり。先ほども言いましたが、当時はまだ今のようにチーズも少なかったんですよ。でも、食べたことのないものを、これでもかと取り寄せました。もちろん、ワインも一緒に!

たっぷりのチーズをいただきます
「デザートの会」ではフランス人パティシエに来ていただき、デザートのフルコースをいただきました。あまり日本人になじみのない『ルバーブ』を使ったケーキもありました。また、コーヒー屋さんも参加してくださり、美味しいコーヒーとのコラボでますますお得な会でした。

ルバーブは、ヨーロッパではメジャーな食材
調子に乗って、秋には「きのこの会」も開催。フレッシュなきのこを数種類フランスから取り寄せ、絶対に生で見たことのないようなきのこをまず説明、鑑賞し、香りをかいで、そのあと調理していただきました。シェフも一緒になって研究してくれて、おいしいキノコのパイを焼いてくださいました!

シェフ渾身の、キノコパイ!
うーん、今考えると面白いことやってたな、、終わった時もに「次はいつ?」と聞かれたものでした。でも、もちろん利益もないですよ、お土産も用意したり、赤字だったくらい。でもこうしたイベントを通して、たくさんの出会いもあり、エクラタンを知っていただくきっかけになりました。


おかげさまで、「ムニュの会」は大盛況に
そう特別なことをやっているとは思わなかったのですが、いろいろな方が声をかけてくれました。まずは読者の一人の女性。年上の女性です。
エクラタンに掲載していたe-mail に連絡をくださいました。「読みました、素敵ですね!私にお手伝いさせてください」って。早速会いに行くと、とても笑顔のかわいらしい方でした。建築の道に進むための勉強中ということでした。彼女はフランスに行ったことがなかったのですが、配布のお手伝いや、得意な映画の記事を書いてくれました。私がひとりでやっている中で辛かったこと、嬉しかったことを話せる相手ができたことに感謝しました。もちろん彼女には報酬など払えませんでしたが、彼女もそれを承知でご連絡いただきましたし、本当に心から支援してくれました。
もうひとつは、静岡日仏協会との出会いです。実は、東京から静岡に来てすぐ、「静岡日仏協会」の存在と活動を調べたのですが、静岡大学の教授の先生方が中心で、それほどたくさんの活動をしている様子がなくがっかりしました(それが自分でエクラタンをやるひとつのきっかけにもなったのですが)。エクラタン創刊号が、静岡日仏協会事務局長の目に留まり、連絡をくださったのです。お会いして、お互いがフランスを通じて同じ方向性を持っていると感じ、協力して活動していきませんか、というお話をいただきました。もちろん喜んでお受けしました。エクラタンを手にし、事務局長に紹介してくれた方にも、この出会いを感謝しています。
さて、先ほども書いたように、静岡日仏協会はあまり民間で目立った活動はありませんでした。公民館で長年行われている仏語講座くらい。そこで、私は、フランス語をはじめとする知識の部分は教授の先生方にお任せをし、私はエクラタンを通じてより街の人に私たちの活動を知ってもらえるよう、いわゆるソフトな面を担当していこうと決めました。
そして、静岡日仏協会は新しく会員体制を整備して、新生静岡日仏協会としてスタートしました。私は得意なプロモーションの部分の強化に着手しました。フランスといえば誰もが憧れるオシャレな国です。そのイメージを最大限に使い、静岡日仏協会もオシャレに格上げしていきました。会報誌の制作や、チラシなどの制作を任せていただき、また、エクラタン紙面でも静岡日仏協会のアピールをしました。
薄っぺらい活動はいつか廃れると私は信じています。ですので、エクラタンにとって、静岡日仏協会と活動することで、自分のやりたいことに、より確実な文化基盤を作ることができ、また静岡日仏協会にとってもエクラタンと活動することにより、堅いイメージがより和らぎ、より広い範囲の方々に来てもらえるといったメリットがありました。すこし、この静岡にフランスの風がふいてくるかな?そんな期待を持ち始めました。
このように、創刊から間もなくの間で、たくさんの出会いをいただきました。
話は前後しますが、私はイベントを今までたくさん行ってきました。ムニュの会をはじめ、音楽、マルシェ、映画、料理教室、ワイン、季節行事のイベント、フランス語サロン・・・。あくまでも「フランス」をキーワードに。
実は私はあまり目立つことが好きではなく、人前にはなるべく立ちたくない人間なので(信じてもらえませんが)、なぜこういうイベントをやるのか、自分でも不思議です。そして毎回イベントは利益もなく、人集めも心配で体力的にも大変な作業なのですが、終わると「次は何しよう」と考え始めてしまうのです。不思議ですね。
さてさて、次回もお楽しみに!!
今日はもうひとつ簡単なフランス語。「元気?」というのはフランス語で「ça va?」といいます。「サヴァ?」という発音。
知り合いに会うと必ず、「Bonjour ,ça va?」と尋ねます。元気なら「Oui,ça va!」(ウィ、サヴァ)と返しましょう。相手にも「あなたも元気?」と聞くことをお忘れなく。フランス人には会話のキャッチボールを楽しむ文化があるのです。
あいさつの話題ついでに、、、
皆さん、フランスに旅行に行かれたことはありますか?
フランスでは、お店に入ったら「Bonjour」とお店の人に挨拶します。何も言わずに入ってくる日本人は少し気味が悪いみたい。おシャレなお洋服屋さんだけでなく、たとえタバコ屋や郵便局、スーパーでも同じです。列に並んで自分の番が来たら、まず「Bonjour」と言いましょう。そして用が済んだら、「Merci!」(メルシー:ありがとう)「Au revoir!」 (オヴァー:さようなら)を忘れなく。日本ではスーパーのレジなどでは何も挨拶をしないのが普通でしょうね。私はこのフランスの挨拶の文化が大好きです。すごく人間らしいと思いませんか?(フランスのレジのおばさんはたいてい愛想がなくちょっとムっとしますけど…)
さて、前回は私のフランス留学について書かせていただきました。
私が静岡で『エクラタン』を創刊した話もさせていただきました。
今回は、エクラタン創刊号発行以降のお話です。
創刊して、読者さんから結構なリアクションがありました。
そんな中、実際に皆さんにお会いしたいなとも思うようになりました。
そこで、イベントを開催。『ムニュの会』と題し、フランスの珍しい、本場の食材を皆で食べようという企画をしました。フランス好きのお友達に手伝ってもらって。「ムニュ」とはフランス語でコースメニューのこと。簡単なコースでは、前菜、メイン、チーズ、デザートという順ですね。
第一回ムニュの会は、「前菜」の回。浜松と静岡で開催しました。季節が春だったので、フランスの春の様子を紹介しながら、ホワイトアスパラを食べました。今となっては国産でもホワイトアスパラが出回っていますが、当時(10年前)はまだ、ホワイトアスパラといえば缶詰の細くてやわらかいもの、という認識しかなかった気がします。
会の実施方法としては、私の前職(第一回コラム参照)の輸入会社から、フランス直輸入(しかも高級料理店用ですからハイクオリティ)のホワイトアスパラを仕入れ、静岡のレストランにみんなで集まり、シェフに調理してもらう、という流れです。今考えると、レストランにはすごく強引でとんでもないことをしました!
とても太くて立派なホワイトアスパラ、歯ごたえがよく甘みがあって、1本で十分オードブルになる存在感のあるもの、召し上がった皆さんが「こんなアスパラは初めて」と味わってくださいました。

なんて立派なホワイトアスパラ!
資料を作ったりメニュー表を作るのは私。やはりおいしいものを食べることで、印象に残り、楽しさもあり、フランスの文化を知ってもらえるのだと感じました。会は好評、最初は苦労して人集めをしていましたが、つづいての「メインの会」からは大盛況でたくさんの方が来てくれました。メインの会のテーマは「ブレスの鶏(世界最高級と言われるフランスの鶏)」、別会場では「ラパン(うさぎ)の会」。うさぎ肉は怖いもの見たさで参加する方が多かったのですが、フランスではよく食べられる食材です。鶏肉に似た味わいなので、実際に食べてみると抵抗なく美味しくいただけたようでした。
うさぎ肉の料理。あっさりとした味ながら、しっとりとした食感
「チーズの会」では、たくさんのチーズをテーブルいっぱいにならべ、説明をしながら食べていただきました。お店の好意で、チーズを使ったお料理もいただけたり。先ほども言いましたが、当時はまだ今のようにチーズも少なかったんですよ。でも、食べたことのないものを、これでもかと取り寄せました。もちろん、ワインも一緒に!
たっぷりのチーズをいただきます
「デザートの会」ではフランス人パティシエに来ていただき、デザートのフルコースをいただきました。あまり日本人になじみのない『ルバーブ』を使ったケーキもありました。また、コーヒー屋さんも参加してくださり、美味しいコーヒーとのコラボでますますお得な会でした。
ルバーブは、ヨーロッパではメジャーな食材
調子に乗って、秋には「きのこの会」も開催。フレッシュなきのこを数種類フランスから取り寄せ、絶対に生で見たことのないようなきのこをまず説明、鑑賞し、香りをかいで、そのあと調理していただきました。シェフも一緒になって研究してくれて、おいしいキノコのパイを焼いてくださいました!
シェフ渾身の、キノコパイ!
うーん、今考えると面白いことやってたな、、終わった時もに「次はいつ?」と聞かれたものでした。でも、もちろん利益もないですよ、お土産も用意したり、赤字だったくらい。でもこうしたイベントを通して、たくさんの出会いもあり、エクラタンを知っていただくきっかけになりました。
おかげさまで、「ムニュの会」は大盛況に
そう特別なことをやっているとは思わなかったのですが、いろいろな方が声をかけてくれました。まずは読者の一人の女性。年上の女性です。
エクラタンに掲載していたe-mail に連絡をくださいました。「読みました、素敵ですね!私にお手伝いさせてください」って。早速会いに行くと、とても笑顔のかわいらしい方でした。建築の道に進むための勉強中ということでした。彼女はフランスに行ったことがなかったのですが、配布のお手伝いや、得意な映画の記事を書いてくれました。私がひとりでやっている中で辛かったこと、嬉しかったことを話せる相手ができたことに感謝しました。もちろん彼女には報酬など払えませんでしたが、彼女もそれを承知でご連絡いただきましたし、本当に心から支援してくれました。
もうひとつは、静岡日仏協会との出会いです。実は、東京から静岡に来てすぐ、「静岡日仏協会」の存在と活動を調べたのですが、静岡大学の教授の先生方が中心で、それほどたくさんの活動をしている様子がなくがっかりしました(それが自分でエクラタンをやるひとつのきっかけにもなったのですが)。エクラタン創刊号が、静岡日仏協会事務局長の目に留まり、連絡をくださったのです。お会いして、お互いがフランスを通じて同じ方向性を持っていると感じ、協力して活動していきませんか、というお話をいただきました。もちろん喜んでお受けしました。エクラタンを手にし、事務局長に紹介してくれた方にも、この出会いを感謝しています。
さて、先ほども書いたように、静岡日仏協会はあまり民間で目立った活動はありませんでした。公民館で長年行われている仏語講座くらい。そこで、私は、フランス語をはじめとする知識の部分は教授の先生方にお任せをし、私はエクラタンを通じてより街の人に私たちの活動を知ってもらえるよう、いわゆるソフトな面を担当していこうと決めました。
そして、静岡日仏協会は新しく会員体制を整備して、新生静岡日仏協会としてスタートしました。私は得意なプロモーションの部分の強化に着手しました。フランスといえば誰もが憧れるオシャレな国です。そのイメージを最大限に使い、静岡日仏協会もオシャレに格上げしていきました。会報誌の制作や、チラシなどの制作を任せていただき、また、エクラタン紙面でも静岡日仏協会のアピールをしました。
薄っぺらい活動はいつか廃れると私は信じています。ですので、エクラタンにとって、静岡日仏協会と活動することで、自分のやりたいことに、より確実な文化基盤を作ることができ、また静岡日仏協会にとってもエクラタンと活動することにより、堅いイメージがより和らぎ、より広い範囲の方々に来てもらえるといったメリットがありました。すこし、この静岡にフランスの風がふいてくるかな?そんな期待を持ち始めました。
このように、創刊から間もなくの間で、たくさんの出会いをいただきました。
話は前後しますが、私はイベントを今までたくさん行ってきました。ムニュの会をはじめ、音楽、マルシェ、映画、料理教室、ワイン、季節行事のイベント、フランス語サロン・・・。あくまでも「フランス」をキーワードに。
実は私はあまり目立つことが好きではなく、人前にはなるべく立ちたくない人間なので(信じてもらえませんが)、なぜこういうイベントをやるのか、自分でも不思議です。そして毎回イベントは利益もなく、人集めも心配で体力的にも大変な作業なのですが、終わると「次は何しよう」と考え始めてしまうのです。不思議ですね。
さてさて、次回もお楽しみに!!
Posted by eしずおかコラム at 12:00
2012年08月07日
第2回 私のフランス留学回想
みなさんこんにちは。Bonjour!(フランス語で、「こんにちは」はボンジュールといいます。発音は、「ボンジュール」より「ボンジュー」の方が正しいものに近いですが。)
第1回のコラムで、私がエクラタンをはじめたきっかけをざっと書かせていただきました。昔を思い出すよい機会になりましたので、今回はもう少しフランス留学時代のことを書きたいなと思います。
私は20歳の4月に大学を休学しフランスに留学しました。
最初の行き先はフランス中部、ロワール地方です。みなさんはロワール地方を訪れたことはありますか? 私はその地方のアンボワーズ(Amboise)という田舎町を最初の留学地に選びました。パリから電車で2時間かかります。ここに3ヶ月間滞在しました。
ロワール地方といえば、古城巡りで有名な観光地です。アンボワーズにもアンボワーズ城という美しくかわいらしいお城があります。また、レオナルド・ダ・ヴィンチが晩年を過ごしたクロ・リュッセという館があります。
なぜ私がこの街(村!?)を選んだかというと、ロワール地方では訛のない純粋なフランス語が話されていると聞いたこと、そして恩師が薦めてくださった語学学校があったということです。また、最初からパリなど大都市に行ってしまうと、遊んでしまう自分を想像できたため。。。! 最初はとことんフランス語を勉強する覚悟で行きました。
ホームステイ先は小さな一軒家。良く手入れされた小さなお庭があり、お母さんと娘さんの二人暮らし+ワンちゃんでした。正直言いますと、お父さんもいる家庭を希望したのですが、実際行ってみるとそのような状況でした。私のお部屋は大きなベッドとかわいらしい木の家具、小さな机のある素朴な部屋。窓を開けると小さな通りが見え、田舎街のおだやかな雰囲気が素敵です。マダムはお料理上手で、毎晩のディネ(夕食)が楽しみでした。田舎ならではの季節を感じるフランスのクラシックなお料理が毎晩テーブルに並び、フランス式の食べ方などを教えてもらいました。
学校は、昔教会だったような建物。古い自転車を貸してもらって通いました。日本人学生は私だけ。その他はドイツ語圏のスイス人が大半で、スペイン、イタリアなど近隣の方、アメリカやブラジル、コロンビアなど南米、中国や韓国のアジア人などさまざまな国から学生が来ていました。誰もが知っているヨーロッパの大きな会社の社長さんもいたり(比較的授業料が高い学校にはヨーロッパ系の学生が多いようです)。
実はこの学生たちは、みんなフランス語がペラペラだったのです、、、私は大学の第二外国語で2年間学んだとはいえ、言っていることもさっぱりわからず状態。しかし私一人のために初心者クラスを作ってはもらえず、自分のレベルより上のクラスに入るほかありませんでした。案の定クラスではさっぱり授業内容が分からず、若かった私は何度か涙を流したあの時のことを鮮明に覚えています。自分のせいでクラスが進まなくなってしまう、そんな罪悪感と情けなさ、悔しさから、放課後毎日4、5時間残って勉強をしたり、先生をつかまえて質問攻めにしたりしました。大学受験よりも勉強した自信はあります。この3ヶ月間の挫折と勉強が、その後のフランス生活に大いに役立ち、そして今の私につながっていることは明らかです。
さて、田舎の生活は最初は良いものですが、3ヶ月もいるとやはり退屈になるものです(笑)。勉強しかやることが無かったというのも事実かな。週末はのんびり寝て、散歩に出て、偶然誰かと会ったらしゃべって過ごしたり、買い物も大きなお店もなく、映画館もないので電車で20分のトゥールという街に行くしかないのです。時々街を美しい馬に乗った人が通ったり、ロワール川湖畔でテニスをしたり、、時々はロワールワインのカーヴ巡りやお城巡りもしましたが、平常はぼーっとのんびり、という退屈な毎日でした。若かったですし(笑)。今行ったらもっと満喫できるかも。
途中、やっと日本人学生も入ってきました。彼女は優秀でしたので分からないところを山ほど聞いて教えてもらいました。それまではフランス語だけでの授業で、質問しても分かったような分からないような、なんとなくの雰囲気で処理していましたが、彼女に聞くことができたとき、日本語で説明を受ける大切さを痛感しました。今私はフランス語も教えているのですが、その時感じた経験が生きています。
3ヶ月間の終わりには私のフランス語も上達し、学校で一番上のクラスに入ることができました。ラテン語圏の学生のスピードにはかないませんが、それでも自分としてはかなりスピード出世だったと思います。
さて、退屈ながらも快適だった田舎暮らしのあとは、パリに移動しました。学校に通いながらも日本から友達が続けて訪ねてきたり、同時期にイギリスに留学していた友達と合流してイタリア周遊をしたりと夏休みも楽しみました。私の遊びたい心が爆発してしまった時期でしたね。田舎暮らしの後でしたから、、、
パリのホームステイ先は、パリ南部モンパルナスという界隈のアパートでした。そこでは、私を本当の娘のように扱ってくれたものです。ムッシュはアフガニスタンの作家さんだったので毎晩アフガン料理を堪能しました。ヴァカンスをルーマニアで過ごした直後のマダムのお土産で連日キャビアをいただいたり、スペイン人と結婚した娘さんからは生ハムを1本もらったり、私はかなりラッキーな時期にステイしたと思います。ステイ後もパリのファミリーには何度か会いに行きました。
パリには2ヶ月間だけいましたが、やっぱり良いですね、都会は。この美しい風景が生活の一部になることに、この上ない幸せを感じた毎日でした。
パリのあとは、リヨンへ。リヨンはスイスに近いローヌ・アルプ地方の大きな街です(フランス第二の都市)。ローヌ川とソーヌ川の二つの川があり、旧市街と新市街があります。必要なものはすべてあるちょうどよいサイズの街です。リヨンは言わずと知れた美食の街。ポール・ボキューズをはじめ有名シェフのレストランが多く、フランス料理界の偉大なシェフはリヨンで修業すると言われています。
私はリヨンの大学に入るべく、最初は学生寮に滞在しました。ここでの、不便でありながらも学生たちと楽しく戯れた(安ワインで酒盛りして悪酔いしたり)毎日はよい思い出です。学生寮に滞在しながら、夢であった自分だけのアパートを探して住むことになりました。日常の会話には不便しなくなった時期でしたが、アパートを探したり不動産屋さんとのやり取りや契約、ガスや電気などの開設はなかなか難しいものでした。
私の城は、旧市街にある1世紀は経っている建物の一室。リヨンの伝統的な建物には螺旋階段があるのが特徴で、私の建物にもあり、暗くて古いのですがお気に入りでした。冬は暖房器具がきかず何度も修理をしたり、すきま風に悩まされましたが、フランスで自分の住所をもつことという夢が叶えられ満足でした。
当時、フランスには学生補助というものがあり、地域によって割合は異なりますが、面倒な申請をすれば家賃の何割かが援助されました。リヨンはその割合がとても良く、私は半額くらいの家賃負担で済んだ記憶があります。そのおかげで貧乏な私でも自分の城を持つことができました。
リヨンはパリほど大きくない(静岡のような感じ)ですから、友達を作りやすい環境です。フランス人の友達がたくさんでき、毎日のように接していました(ストーカーにも悩まされたりしましたが…)。正直、フランスに来ても日本人同士で固まってしまいフランス語が話せないまま帰国してしまう人も多くいましたが、私は常にフランス人といたので、このリヨンの生活で、生きたフランス語を習得できたと思います。もちろん、この時期に仲良くしていた日本人の友達も、今でもかけがえのない仲間です。
リヨンにいた頃は週末にイタリアやスイスに遊びに行くこともできました。夏休みには夜間バスでスペインにも行ったり。
一度父が来てくれたことがありました。その時私のアパートを見て「よく海外でがんばっているな」と初めて褒めてくれました。褒めてもらえたことが少しでも恩返しになったと嬉しく思いました。
私がなぜこのように短期間でフランス国内を移動して住んだかというと、それぞれの地方での生活や、各ファミリーの生活、または寮、ひとり暮らしと、いろいろな生活を覗き見てそれぞれの社会を体験したかったからです。ほんの一部ですがフランス社会を垣間見ることができ、よりフランスという国を知ることができたと思います。もうひとつは、環境を変えなければ成長する勇気が持てない、そんな弱い自分の性格を知っていたからだと思います。留学は語学の習得だけでなく、自分の弱さやコンプレックスを克服し、自分の強みを探し得る旅のようなものでもありました。
私の留学生活はこんな感じです。
村上春樹さんのエッセイの中に「アメリカに行かなければ自分がどうなっだったなんて考えもしない。その時間は戻ってこないし、もし日本で暮らしていたって成長したかもしれないから」というような内容がありました。これはずっと私の心に残っています。
もし、フランスに限らず留学したいと思っている皆さん、海外での生活は一生の財産になります。ぜひチャレンジしてください。今は私がフランスにいたときと大きく違い、どこでもインターネットで情報が得られ海外とのやりとりが容易ですから。でも、いろいろな理由で留学できない方もいますね。エクラタンの読者の中にも、様々な理由で海外など行くことができず、エクラタンを眺めて海外に行った気分を楽しんでくださっている方もたくさんいます。留学は素晴らしい経験になりますが、その内容も大切だと私は考えます。留学したからすごい、長くいたから偉いわけではないです。他人との比較でなく、自分なりに世界のどこにいたってがんばればいいのです。
それでは皆さん、次回またお会いしましょう!
Posted by eしずおかコラム at 12:00
2012年07月17日
第1回 『エクラタン』のはじまり
はじめまして。私は『エクラタン』というフリーペーパーを発行している山本ひとみと申します。このたびeしずおかさんよりお声がけいただき、コラムを連載させていただくことになりました。よろしくお願いいたします。
『エクラタン』とは、フランスの情報をフランス好きな皆さんと共有したり発信したりするフリーペーパー。2002年の創刊から今年で10周年となります。こんな節目にeしずおかさんからお声がけいただいたのも何かのご縁です。いままで、いろいろな機会に発行やコンセプトについて書かせていただきましたが、今一度この10年を振り返りながらご紹介させていただきたいと思います。
私は、大学生の時に2年間休学してフランスに留学しました。大学という共通の志のある者が集まる場で、それに埋もれてしまう自分が嫌でした。コンプレックスもたくさんありましたし、人と何か違う自信を持てるものを持ちたい、と感じていました。そんな時に出会ったのが第二外国語として選択したフランス語。その先生や仲間たちのおかげで授業が大好きになり、1年生の時に席が近くだった子とパリに2週間旅行しました。その時、この国のことをもっと知りたい、この国の言葉を話せるようになりたい、と強く思いました。
旅行から帰ったあとは、バイトの鬼。1年間で100万円を貯め(学生にしたらなかなかです…よね?)、それでも全然足りませんので、奨学金と親にお世話になって、フランスへと旅立ちました。約束は1年。結局何とか延長させ、休学できるマックスの2年後に日本へ戻ってきました。
その後大学を卒業し、再び留学という選択肢もありましたが、私は迷わず就職を選びました。短期間ですがフランスで学んだことを日本で試す生き方をしたい、両親にもそれを成果として見せたいと思ったのが理由です。
東京の商社でフランス語を活かして働きました(新卒の採用があった訳でなく必死で直談判です)。仕事の内容は、私がフランスを経験して最も興味をもった食の世界。私は「調理」分野でのプロでは到底ありませんが、食に関わる仕事をしたいと思い、レストラン向けフランス・イタリア食材の輸入の仕事に就きました。
私は入社翌日からFOODEXという食の展示会への出店をまかされ、右も左も分からないまま、数日間でフランスへの発注や電話の応対などもするようになり、時には飛行機を飛ばす指示をフランスにするという(もちろん上司の指示に従ってですが)、新入社員には考えられないような毎日がはじまりました。
フランスの誇る文化である食の世界において、現地の生産者と話をしたり、日本の有名レストランのシェフから発注を受け食材を卸す。仕事は過酷でしたが、そんなわくわくするやりとりに毎日触れられることが喜びでした。勤務は理由あって短期間でしたが、密度の濃い仕事をさせていただきました。
その後、静岡に来ました。穏やかで素敵な街ですが、最初は東京でのハードだった毎日からのギャップに慣れず、またフランス漬けだった生活がまったくリセットされてしまった不安に駆られました。フランスを求めて、街中を歩き調べて回りましたがあまり見つかりませんでした。いろいろ考え、ないなら自分で作ってみようかと創刊したのが『エクラタン』です。
私の後に留学した友人(一緒にはじめてパリに行った子!)に記事を書いてもらったり、身近でフランスが好きな人に参加してもらったりして、第1号ができました。
内容はフランス留学の思い出だったり、よく比較される京都とパリのことだったり。今考えるとスカスカです(笑)。デザインは手探りでmacやソフトの使い方を勉強しながら、印刷は近所にの印刷所に持ち込んで。100%自費の1色刷り、2,000部からのスタートでした。
形は正方形。折らずに持ってもらえるサイズで、すべてのページに目が届くような折りにしました。この形式は今でも好きで、変えることはありません。第1号を手に、街を回って置いてもらいました。その時活用させてもらったのが、電話帳。静岡市と、地元浜松市を中心に、フレンチレストランやカフェなど、興味を持ってもらえそうなところにエクラタンを持ってまわりました。
断られたり、ふーん、何でそんなことするの? と冷たい対応の所も正直ありました。別に断られるのはしょうがない、けどどうしてそんなこと言われなきゃいけないんだろう、と悔し泣きしながらとぼとぼ帰った記憶もあります。(実はそんな時は「やっぱり置きたい」と向こうから言われるようなエクラタンにしてやる!と奮起したものでした。そんなことの繰り返しです、笑)
でも、しばらくすると、読んでくださった方からメールが来たり、うちでも置いてあげるよ、という声も少しずついただいたり、会って話がしたいと言われるようになりました。静岡の人は、外にはあまり現れないけど内に秘めたものを持っている人が多くて、何かのきっかけを待っているのかな、そんなことを感じました。
第2号目から、何とスポンサーがつきました。その企業さんは「個人レベルで終わらせず、責任を持って続けて欲しい」という宿題をくださったのだと思います。そのことは、今でもずっと私の中で感謝とエネルギーと教訓となっています。
こんなふうにはじまったエクラタン。その後のすったもんだもたくさんありますが、何とか10年休まず続けることができました。過去のストーリーから今のタイムリーな活動まで、少しずつ紹介していきたいと思います。楽しみにしていてくださいね。
(山本ひとみ)
Posted by eしずおかコラム at 12:00